茶道家が、現代生活と工芸をテーマにして縦に横に語る、特別な機会でした。
茶の精神を通じて、日常の中で工芸を活かし愛しむ技を磨き、
工芸のある生活を身近に感じられるようなヒントがちりばめられたシンポジウムを文字で振り返りましょう。
主催:一般社団法人ザ・クリエイション・オブ・ジャパン
開催日程:2017年10月12日(木)
開催場所:金沢21世紀美術館 シアター21
■登壇者 | ||
大島宗翠 石川県茶道協会・代表幹事 今日庵(裏千家) |
田中仙堂 公益財団法人三徳庵理事長 大日本茶道学会会長 |
宇田川宗光 茶道宗和流 |
■進行 島敦彦 金沢21世紀美術館館長 |
田中孝樹(以下、田中(孝))本日はシンポジウム「茶道から学ぶていねいな暮らし」にお越しいただき、誠にありがとうございます。このシンポジウムは京都、東京の後を受け、ここ金沢で開催いたします、21世紀鷹峯フォーラムのメインイベントの一つでございます。司会の田中孝樹と申します。よろしくお願いいたします。最初に主催者を代表しまして、一般社団法人ザ・クリエイション・オブ・ジャパンの専務理事兼事務局長の岩関禎子よりごあいさつさせていただきます。
岩関禎子今日はみなさまご多用の中、足をお運びくださいまして誠にありがとうございます。一般社団法人ザ・クリエイション・オブ・ジャパン代表理事の林田英樹に代わりまして、私のほうでご挨拶させていただきます。私どもザ・クリエイション・オブ・ジャパンは、「100年後に残る工藝のために」というアクションをできるだけ中立の立場で横断的につなぎながら、今までできなかったこと、個々では果たせなかったことができるような社会や、使い手の方々がより工芸を慈しめる社会をつくるために活動しております。この21世紀鷹峯フォーラムは京都からはじまり、昨年は東京、今年は石川・金沢で呼びかけを行っております。
この活動のなかで一番大切に思っていますのは、ものがより深い味わいをもって生活のなかに存在することで、より意識が通い、大切なものになっていくことです。そんな構造を明らかにするには、茶道の世界にこそ、その仕組みがあるのではないか。そんな思いで今日は茶道家3名の方に、普段はお聞きできないことを伺うチャンスをいただきました。ご快諾下さいましたお三方様には、改めて御礼申し上げます。またそのような機会の場として会場をご提供くださいました金沢21世季美術館の島館長にも御礼申し上げます。本日はみなさまと一緒に私も楽しまさせていただきたいと思います。
田中(孝)それでは今日ご登壇いただきます3名をご紹介いたします。茶道裏千家・大島宗翠様、大日本茶道学会会長・田中仙堂様、茶道宗和流・宇田川宗光様です。また本日進行と聞き手をお願いしますのが金沢21世紀美術館の島敦彦館長です。島館長は富山県立近代美術館の立ち上げから携わっておられ、国立国際美術館、愛知県美術館館長、2017年4月よりこちらの館長に就任されました。一言ごあいさつをお願いしてから進行をお願いできればと思います。
島敦彦(以下、島)茶道の世界でご活躍される3名をお招きしました。流派を超えて、こうした形で集まっていただく機会はなかなかないのではないかと思います。茶道を日常生活とどう結びつけるか。茶道の精神はどうであるのか。そういったことを今日、お話いただけたらと思います。こうした試みは鷹峯フォーラムならではのものと思います。
金沢は戦災を免れたこともありまして、歴史的な遺構が残ると同時にさまざまな道具類も残ってきたと思いますが、茶道から謡まで戦後いち早く再開して発展してきたまちではないでしょうか。では最初に石川県を代表する茶人、茶道裏千家の大島宗翠様からご自身の活動をご紹介いただきたいと思います。
大島宗翠(以下、大島)私はこの仕事をしていますが、お茶を仕事にしようと思ったのは24歳からです。私の祖父母は東京で活動をしていた茶人でした。そして両親も若い頃は東京でお茶の稽古場を持つ茶人でした。戦中に金沢に引き上げて以来金沢にいます。よく祖父が東京のお客さんを接待するために金茶寮(きんちゃりょう)など金沢の有名な料理屋さんでお茶をたて、お客さんをもてなしていたのですが、あるとき私はそこに呼び出されました。「この茶箱で茶をたてろ」と。茶箱の点前なんて習ったこともないのに。「箱を開ければわかるから」。そういう状態でお茶に初めて接しました。親父が教えているのは間近で見ていましたがあまり興味がわきませんでした。しかしなぜ喜んで行ったかというと、あとでごちそうが食べられるからなんです。当時は貧しくて、ろくなものは食べられない時代でしたから。それがお茶のきっかけです。
大学は金沢美術工芸大学に入り、日本画に籍を置きましたが、結局4年間演劇に明け暮れていました。京都の劇団に入り、毎週土日は京都で活動をするような生活です。卒業してすることもないので学校の先生を2年間やりましたが、どうも宮仕えが肌にあわないことがわかり辞めました。すると親父が「お茶でもやらんか」と。演劇をやっていたころ、芝居や台本を通していろんな人生をみましたが「もしかしたらお茶の世界は演劇に似ているかもしれない」と思ってはじめたのが今に至っています。
この写真は献茶をしていますが、毎年開催される「百万石まつり」のなかの「百万石茶会」です。このような場に出ても、演劇経験のおかげで人前であがるようなことがありませんでした。金沢は、いろんな流派が昔から仲良く交流しながら呼んだり呼ばれたりというような土地です。前田家に仕官した裏千家の初代・仙叟のお墓が月心寺というお寺にあり、毎月命日の23日に釜をかけておりますが、ここでは裏千家以外のいろんな流派の方が、仙叟の遺徳を忍んで釜をかけてくれるのです。
お茶の世界が日常生活に関わるとはどういうことなのか。私は金沢美術工芸大学などで茶道を通した講座をしていますが、いつも学生に言うのは「茶は生活の総合文化である」と。特別なものではなく、日常的なものなのだと伝えています。
金沢に古くからある真成寺というお寺で人形供養という行事をやっています。昔、祖父に茶会に連れていってもらい掛け軸の文字が読めないと「もっと勉強せなだめや」と叱られ、それに反抗していましたが今になって後悔しており、ここから勉強させてもらおうと思っております。恥ずかしながら書道協会の会長などもしています。書を介してお花の世界の人たちにも出会うことがありました。こうした色々な文化に関わることができるのもお茶の世界にいることの一環かなと思ったりしています。
「金沢城兼六園大茶会」について紹介いたします。これはいまから40数年前に金沢の工芸家の重鎮のかたが「金沢は美術工芸の王国だけれど、だんだん茶道具をつくる職人がおらんようになった、なんとかせな駄目や」と、茶の勉強してもらうためにはじめた茶会です。当初は茶人や作家を呼んでいましたが、せっかくならと一般のお客さんにもお声掛けするようになり、広まりました。鷹峯フォーラムでは「100年後の工藝」を目指しておられますが、この茶会もかなり前から作家を育てようとしておりました。
金沢には「五人扶持(ごにんぶち)」という有名な松があります。前田家十三代藩主斉泰公より、5人分の給料がこの松1本に与えられたため「五人扶持の松」と呼ばれるようになりました。その松の前で茶箱席を設け、松を愛でながらお茶を一服楽しむ茶会の様子です。宴会をするとなると、なかなか許諾は取れないでしょうが、お茶をするということだと「ぜひこの場所を使って、みんなに松を見てもらってほしい」と言われます。
このように、さまざまな活動をして今日に至るのですが、そんな私の茶に関わるきっかけや考え方の一端をお話しさせていただきました。
島それでは続いて東京からお招きしました、茶道会における知性派とも言われている大日本茶道学会の田中仙堂様にお願いいたします。
田中仙堂(以下、田中〈仙〉)まずは三徳庵・大日本茶道学会について簡単に説明いたします。今の時代「大日本」ときくといかなる団体かと思われる方もおいででしょうが、本学会が設立されましたのは明治31年、今から120年前でございます。当時の日本が「大日本帝国」と称したのは、大英帝国、グレートブリテンを手本にしたからだと言われています。英国紳士のいる立派な偉大な国にあこがれて「グレート」という言葉を受けとめ、小さな島国でも立派な国になろう、と大日本と名乗りました。「美」という字は「羊」のしたに「大」きいと書いて「美しい」と読ませます。「大日本」とは美しい私たちの名前、私たち日本という意味だったのではないかと思います。そのなかで、世界に誇れる文化として茶道があることを見直してほしい、というのが大日本茶道学会を設立した曾祖父・田中仙樵(たなかせんしょう)の主張でした。
明治31年は、士農工商という身分があった江戸時代から、四民平等の国民国家へと変わった日本に、これまでの文化も対応しなければならないという機運が盛り上がってきた時代です。日本画を生みだした岡倉天心、発句から俳句を生み出した正岡子規、戦闘術としての柔道を武道としての柔道にした嘉納治五郎らが活動していました。同じ時代に、田中仙樵の大日本茶道学会は茶道の分野で、これまでの伝統を近代日本にふさわしい姿にしていこうという目的をもった活動だったのだろうと思います。そのとき仙樵に「学会」という形式を採用させたのは、初代会長の鳥尾得庵(とりおとくあん)でした。仙樵が初代会長として担いだ得庵は、大日本茶道学会創立の10年前、明治21年に東洋哲学会の創立に関わっていました。明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で衰退した仏教を、東洋の哲学として西洋に認めさせる動きの後援者だった得庵は、学問を進歩させる仕組みである学会を茶道にも採用したらどうか、と仙樵に提案したものだと思われます。しかしこのアイディアはいささか時期尚早で、同時代の人々の理解を得るには至りませんでした。その後、仙樵から直接指導を受けた人間によって賛同者が形成され、120年の歴史を績ぐこととなりました。今こそ創立の精神を見直し、アカデミアの香りのする茶道流派として茶道のありかたを発信し続けていきたいと考えております。
私の話に変わりますが、その仙樵のあとを継いだ田中仙翁(たなかせんおう)の長男として昭和33年に東京に生まれました。東京タワーと同じ年です。インスタントラーメンが初めて売りだされた年でもありました。高度成長、バブル景気とその崩壊を経験するなか、日本人の生活が西欧化する過程を身を以て体験した世代です。
私は今年の1月1日に四代会長田中仙翁のあとを継いで第五代の大日本茶道学会の会長としての活動を開始しました。今回のテーマでもある工芸とも関わる活動についてお話ししたいと思います。今年の4月に東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」で、「茶の湯を語るーヒトから、モノから」というシンポジウムにパネリストとして登壇しました。そこで私は、近代日本人と茶の関係についてお話ししました。
次に、茶道に親しみをもっていただこうと「お茶に関する話だけでも聞いてください」というスタンスで普及活動を行っております。8年前からは「お茶つながりがおもしろい」という名のトークショーを毎年行っております。はじめは著名な方のファンにも話を聞いてもらいたいと思い、女優の紺野美沙子さんやファッションモデルのはなさん、DJのピーター・バラカンさんをゲストにお呼びしました。それから華道の勅使河原茜さん、三味線方の常盤津文字兵衛さん、刀匠の宮入小左衛門行平さんなど、徐々に日本の文化に関わる人々をお招きし、対談をしました。
一昨年、展示照明の専門家である東京国立博物館の木下史青(しせい)さんをお迎えしましたときは、かつての茶人は照明家でもあったというようなお話をしました。こうしたいろいろな切り口から、お茶に関心を持っていただこうと思っております。今年お越しいただいた坂倉新兵衛さんは父が始めた「仙心会茶道工芸展」の会員でもございます。
父は現代にふさわしい茶道具とは、使い手と作り手の対話から生み出されなければいけないと考えまして、工芸家の方々の参加を求め、現代の茶道具を発表していただく場所として「仙心会茶道工芸展」を設立しました。昭和45年の第1回から第15回まで開催し、2018年3月に第16回を迎えます。
私は書物でお茶を知っていただく活動もしております。本名の田中秀隆の名で『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版)という学術書も書いているので難しいことばかり言っているようにみえるのですが、映画や文学をお好きな人のために『お茶はあこがれ』(田中仙堂著、書肆フローラ)というエッセイや、ビジネスマンに関心をもってもらうような『茶の湯名言集』(田中仙堂著、角川学芸出版)などを書いてみたりしています。今年は『岡倉天心「茶の本」をよむ』(岩波現代文庫)といった解説本を出しました。最後は本の宣伝のようになってしまいましたが、こちらで報告とさせていただきます。
島それでは次に同じく東京からお越しいただきました、茶道宗和流十八代宇田川宗光様です。よろしくお願いいたします。
宇田川宗光(以下、宇田川)宗和流は小さな流派ですので、茶道の世界でもご存知ない方も多いと思います。まず金森宗和(かなもりそうわ)についてご紹介いたします。
宗和の祖父の金森長近は、織田信長に仕えた武将で飛騨高山藩の藩主となりました。宗和は嫡男として三代藩主を継ぐ立場にありましたが、大阪冬の陣出陣の際に勘当されたといわれています。現在では、宗和自身の名前よりも、宗和が指導して茶道具などをつくらせた野々村仁清の方が有名かと思います。後に宗和は加賀の前田利常公から仕官を勧められますがこれを辞退し、代わりに長男の七之助が前田家に仕官したことから、金沢に宗和流が伝わることとなりました。仁清の茶道具も金沢に多く伝わっております。
宗和流は三代目以降、若くして代を継いだり、養子を迎えたりと不遇が続き、七代は自害してお家断絶になってしまいます。それからは世襲によらず、流儀の推薦で代表を決めて継いでいくことになりました。十四代を継いだ辰村宗榮が、親交のあった能登出身の畠山即翁(はたけやまそくおう)の勧めにより東京に出て、それ以降東京に伝わっております。
私は2年前に先代から代を譲られて十八代となりましたが、流儀の茶会等の活動の他に、茶事の楽しさを知って頂くことに力を入れて参りました。茶道というと、お稽古やお点前の作法のイメージが強いかと思います。一般的な大寄せ茶会では、広いところに20〜30人入ってみなさんでお茶をいただきます。
多くの方にお茶を知っていただくためには非常に大事な役割ですが、私自身は少人数でお茶道具を楽しみ、懐石を食べてお酒を飲み交わして、濃茶・薄茶という茶事の楽しさを知ってもらえたらと思っています。
茶事を体験してもらう時にハードルとなるものの一つが正座でしょう。東京新宿区の私の自宅の近くに、正座をせずにお茶の雰囲気を体験できる「夜咄Sahan(よばなしサハン)」という空間を設けました。そこで正式なお茶事を体験することもできますし、気軽にお料理とお酒だけでも楽しめる場として利用していただいております。ここから、お茶やお道具、日本文化に興味を持つきっかけになれば、と願っております。
お茶室の雰囲気で色々な道具を拝見するのは格別です。ですが、特にお茶室でなくても、人を自宅に招いてコーヒーとケーキでもてなすだけでも、器に興味が出てきて、それを人に見せて自慢したり、同好の士が集まったりすることで工芸に関する関心が深まるのではないかと思っています。
鷹峯フォーラムとのご縁は一昨年に呈茶のお手伝いをいたしましたのが最初で、「夜咄Sahan」での茶道体験を担当し、本日このような場にお招きいただくこととなりました。人前でお話をするのは不慣れで恐縮ですが、本日はどうぞよろしくお願い申し上げます。
「工芸ピクニック」から
島それでは続いて昨日行われた「工芸ピクニック」を起点として、お話を膨らませたいと思います。
田中(孝)昨日この金沢21世紀美術館で庭をお借りし、芝生のうえで「工芸ピクニック」をしました。ピクニックにお気に入りの工芸品を持って出かけよう、というものでございます。
私たちは、日本でのピクニック活動を先駆的に広められている東京ピクニッククラブさんと一緒に、9つのルールをつくりました。なんとなく楽しそうだなと興味を持ち、それぞれで自主的に私もやってみよう、となったときの指標になるものがあるといいなと考えたものです。これは茶道にも関わりがあるように思いますので、コメントをお願いできますでしょうか。
「心得その1:工芸は社交で ある。語れ。褒めよ。」
「心得その2:ピクニックにホストはない。全ての人が平等な持ち寄り食事が原則である。」
「心得その3:持ち物は、飛びっきりのお気に入り。」
「心得その4:どんなものでも、使い方次第で大名品。」
「心得その5:思い立ったが吉日。」
「心得その6:一座建立、一味同心。私のものは皆のもの。」
「心得その7:料理を愛でる。器を味わう。」
「心得その8:ピクニックに事件はつきものである。泣いたりするのは違うと感じてる。」
「心得その9:地域と風土、時空の遊びに出かけよう。」
島今日ご登壇いただいているみなさまは、この9つのルールをどのように見られますでしょうか。ひょっとして茶道と通じるところがあるのではないかなと思うのですが、大島さんからまずは気になるものを例をあげてお話しいただけますでしょうか。
大島残念ながら私は昨日のピクニックには参加できず、今朝の新聞でちらっとみまして「行けばよかったなあ」と思いました。私も持ち運びのお茶のセットを持っています。20年ほど前になりますが、日本三名山の一つである白山の麓で大学4年間アルバイトをしていたのです。私は暑いのが大嫌いでして、実に涼しいところが気に入っておりました。アルバイトを辞めてからも毎年白山には登っています。ある時お茶のセットを持って山で飲みましたら、これが実に美味しい。せっかくなら登山者のみなさんにも飲んでもらえたらいいな、と思い立ちまして、2年間かけて道具を山の上まで持って行きました。組織の仲間にお願いをして、登山者にお茶をふるまうことも時々やっております。
それから60歳と70歳になるとき山の上で茶会も開きました。家元に色紙や短冊を書いていただいて、仲間にも「上まで来い、ごちそうするぞ」と呼ぶのですが、さすがに3、4時間の登山はなかなか大変ですよね。でも上で飲むお茶とお酒はおいしいのです。私はお茶よりも毛の入っているおチャケ(お酒)のほうが好きですが(笑)。昔から、お茶がいいか、お酒がいいか、という酒茶論というのがございまして、どちらもいいと落ち着くわけですけれど、いろいろなことを楽しみながら総合的に楽しめるのがお茶だと思っております。
島山に登ってのお茶は格別でしょうね。それでは田中先生お願いします。
田中(仙)例えば「心得5」では「思い立ったが吉日」とありますが、思い立った時にお茶をやるのを「不時」といいます。時を選ばない。また「心得6」にあります「一座建立」という言葉も、もともとは世阿弥が「風姿花伝」のなかで自分たちの能楽の一座が成功するかしないかは1回限りの舞台にあるんだ、という意味で使っていたものを、連歌の世界でお互いにルールを守りあうという意味合いで「一座建立」と言うようになりました。それは武野紹鴎(たけのじょうおう)の影響だと思いますが、「一座建立」は茶会の初心者にとっての心得であると書いてあります。
島言葉の歴史をありがとうございます。宇田川さんはいかがでしょうか。
宇田川昨日は工芸ピクニックに参加させて頂き、自分なりにお茶とお酒のセットを持参致しました。各チームでゴザを敷いて、思い思いのお道具を広げ、お料理を並べ、最初は自分の陣地を守らなければいけないものと思って、一人でじっと座って来たお客様にお茶を点てたりしながら話をしていました。ですが、後半戦はそろそろ良いかな、と酒と盃を持って近くのグループにこちらから攻め込んでみました。
話してみるとそれぞれの思いやコンセプトを持っていらっしゃって、直に聞いてお酒を酌み交わしてみると、見ているだけではなく、実際に参加してみることで伝わることも多いと気づかされました。器を褒めたり褒めてもらったりするのも楽しく、同じテーマで集まった「ピクニック」でも、こんなにいろいろな切り口があるのだと驚かされました。
また「心得その2」に「ピクニックにホストはない」とありますが、お茶では亭主が客を呼ぶものです。でもピクニックではホストとゲストの境がありません。お茶では違う日に呼んで・呼ばれてをしますが、ピクニックは同じ日に同じ空間で対等というのが面白いと感じました。
失敗談、事件
島私からお聞きしたいことがあります。「心得その8」に「ピクニックに事件はつきものである」とありますが、これまでの色々な経験、あるいはご自身ではなくても目撃した事件などがありましたら教えてください。
大島お茶の世界には色々な逸話がありまして、そこからお話したいと思います。ある大茶人の茶会で客が茶碗を割ってしまった。そこでその亭主がなんと言ったかというと、「またお前割れよったか」と。古いものには繕って膠で接いだものもあるわけですよね。その茶碗がそういうものだったのかどうかわかりませんが、「またお前割れよったか」と言われたことで、割った客は非常に助かった。ただその客は後日、自分の持っていた一番いい茶碗を持ってお詫びに参上したという、祖父母や父親から聞いた逸話です。
田中(仙)私は初めて父に連れられて「大師会」に参加したとき、名物の香合が出てきて席中で回しているとき、ある人の場所から「カチン」という音がしたんです。扱いが悪かったのかもしれません。そのとき美術商の人が「あなたは誰ですか、連絡先を控えさせて下さい」と言ったのです。これは大島さんのお話に則ると、少し心得が足りない例かもしれません。松平不昧(まつだいらふまい)という人は「客の粗相は亭主の粗相」と心得のなかで言っています。大島さんの話のように、客の粗相を感じさせないという心得が、お茶のなかでは伝えられているのではないでしょうか。
宇田川私はしょっちゅう粗相をしていますが、お茶席で一番記憶に残る事件と言いますと、茶事のメインとなる濃茶の点前で起きた出来事です。静まりかえったお点前の最中、炉の中に朱漆で花押の入った竹の蓋置を落としてしまったのです。濃茶の厳粛な空間に、もうもうと煙があがってしまったのですが、雰囲気を崩してはいけないと思い、点前を続けてお濃茶を出しました。濃茶を一口飲んだご正客より「どうぞお取り上げください」と言って頂いて、ようやく慌てて焦げた蓋置を救出いたしました。トラブルはつきものだと思うのですが、対処の仕方に正解はありません。昔のお茶人さんの逸話では、トラブルが起きた後にうまく処理すると、それが良い話になったりするのですね。ピクニックのようなイベントでも、何もないよりも何かアクシデントがあったほうが、振り返ったときに楽しい思い出として話せることもあるのではないかと思います。
お気に入り
島9つの心得のなかで、たとえば「心得その3」の「持ち物は、飛びっきりのお気に入り」とあります。みなさまは普段使われているなかでお気に入りはありますでしょうか。
大島ある方の茶事で、懐石の席で席杯が出てきました。お客が5人ほどだったので、丸いお盆に5つの席杯が出てきまして「お好きなものをお使いください」と。それでパッと目が留まった盃があったのです。早速手に取りますと、ピッとした衝撃が走ったわけです。それに亭主からお酒をついでもらって口元にもっていきますと、なんともいえない飲みやすさでして「これはいい」としか思わなくてですね、亭主にこう言いました。「私の口から離れん、これ(をつくった作家)は誰だ」と。すると亭主は「八木一夫という作家の盃で」と。私は「もっていってもいいか、わしの口から離れんわ」と言ってしまいました。亭主もしばらく考えていましたが「持って行きまし」と。
箱もなかったので懐に入れて持って帰り、その盃で毎晩お酒を飲みました。八木一夫を調べますと前衛の陶芸家で、お酒が大好きなのだそうです。酒飲みの気持ちがその器に滲んでいました。そして飲むたびに変化が生まれてくる。それから10年近く愛用しまして、後に箱もつくって私の手元に置いていました。
ただ亭主に会うと、その話が出ることがあり「そろそろ彼もこれに会いたいのかなあ」と思っていました。たまたまその亭主の息子さんがうちで茶名を伝達することになり、本人とご両親をうちにお呼びして茶事をしました。その盃を最後に出して「これはあなたのお手元にお返しします」とお返ししたのですが、今でも夢に出てきます。「返さなければよかったなあ」と(笑)。ものに対する思い出は色々ありますけれど、あれはいままでの私の人生のなかで一番インパクトの強いものでした。
田中(仙)大島さんが「これは誰だ」とお聞きになったのは、あなたにはこの器に思い入れがあるのでは?というお気持ちだったのですよね。亭主は自分が気に入っているものを出しているので、実は訊いてほしいんです。何も訊かれてないのに自分から言うのは図々しいけれど、きっかけさえあればどんどん思い入れを語りたいはずです。何を申し上げたいかというと、「お気に入り」というルールはお茶の世界にもあり、思いを分かち合うもの。大島さんのお話ではないですが、「誰」の声で分かち合うことに広がっていた、ということではないかと思います。
宇田川とびきりのお気に入りを手に入れると箱をつけたくなったり、名前をつけてしまったり。お茶人さんはものに対する愛が深いな、と感じます。外国ではバカラのグラスに名前をつける、なんて聞いたことがありません。また、手に入れてから使い込んでいくうちに変化する楽しさがあるというのも、日本的な楽しみ方でしょう。根津美術館に「撫子」という名がついた徳利がありますが、亭主が毎日かわいい、と子供のように撫でていたから「撫子」という名前がつけられたのだそうです。それほどものに愛を注げるというのは素敵だと思います。
島9つのルールなど、ほかに気になるものがもしあればお話しください。
大島箱の話で思い出しましたが、箱に入った日本の名品が海外へ貸し出されても中身しか帰ってこないことがある、と聞いたことがあります。「あの箱どうした?」と訊くと「パッケージは捨てた」と海外の学芸員が言うのだそうです。箱に自分の思いを書き残すなど、中身はもちろん容れ物にも思いを込める文化が日本人にはあるのですが、海外では箱は単なるパッケージ、という話です。
島僕も美術館で仕事をしていますので、かつてそんなことがあったという話を耳にしました。
田中(仙)箱は9番目の心得「地域と風土、時空の遊びに出かけよう。」にちなんで言えば、「時空の旅をしている」ことを語っているものではないかと。それからもう一つルールを付け加えれば、楽しさは、人と分かち合うことで倍増するということだと思います。そのときそこにいる人だけではなく、道具を愛した人やこれから愛していく人を繋ぐ役割を、箱は担っているのではないでしょうか。
宇田川「心得その9」について、お茶というと自分のお茶室でするものですが、外でするときは、地元の食べ物や飲み物があったり、風景だったりが楽しさなのでしょうね。
質問より
ものの価値
問い:ものの価値について、どう思いますか?「なんでも鑑定団」という番組もありますが・・・
島みなさまのお話を通して「工芸ピクニック」が縦に横に、少しずつ立体的になってきました。次にいろいろとお聞きしたいことを質問として用意しておりまして、いくつかの質問をさせていただきたいと思います。
はじめの質問は「ものの価値」についてです。『なんでも鑑定団』のようなテレビ番組や、「はてなの茶碗」という落語のように、評判という価値が付加されることで値段が上がる話もあります。ものを選ぶとはどのようなことか。それぞれお話し願います。
大島最終的には持っている人がもつ価値が、そのものの価値だと思っています。ただ客観的なものと主観的なものがありますから。『なんでも鑑定団』のような番組のない、私が大学生のころの話を思い出しました。
私が懇意にしていた美術史の先生の研究室に、父兄が名器といわれるようなものを持ち込んでくるわけです。すると、先生がおそらく試しているのだと思いますが私にそれを見せて「どうだ?」という仕草をします。私が首を振ると「お前もそう思うか」とこっそり言うのです。父兄が「先生どうでしょう」と訊きますと、「これを売ろうと思っているのですか? これはお宅の宝にしときまっし」と先生は答えていました。とてもいいものだなあというのはほとんど見たことがありませんでした。自分が求めた価値観、それは別のものだと思うのです。
私も観光をして色々と買ってきますが、ある器に箱がないので、指物師をしていた弟子につくってもらったことがありました。その器をみて弟子が「先生、これは箱をつくるほどのものなのか」と言ったので、「箱をつくるということは、そこに自分の思いを込めることで、世の中の価値観と自分が持っている価値観は違うのだ」と答えました。自分だけの価値は自分だけのものだ、と思っています。
田中(仙)テレビなどのマスメディアだと客観的といいますか、多くの人に共通する価値でしか表現できないことがあります。『なんでも鑑定団』はその一例でしょう。現代ではなんでも金銭に換算できますが、例えば私が交通事故にあったら、保険会社はこの人は生きていたらどのくらい稼げるだろうか、といった価値を決めてくる。それならば、例えば自分のパートナーの生涯収入が平均に比べて低かったら、パートナーを変えますか。変えられないですよね。愛というある種の主観的な価値を持っているから、違う物差しになると思うのです。BBCでも『なんでも鑑定団』に似た番組があって、それほどでもないものを「大切に持っていてください」と鑑定士さんが言っていたのを見たことがあります。金銭ではない価値があることを知ってもらいたいです。
宇田川たまに私も番組を拝見しますが、値段をつけるのは大変だろうな、と思いながら見ています。不動産の鑑定方法には3種類あります。まず一つは再調達するときの価格です。今は作ることのできない骨董品で考えると、二度と調達できないのですから、作るときの値段は換算のしようがありません。次に、利益還元法では、1年間でどのくらい稼げるかを考えます。これも、1千万の茶碗で利回りがこのくらい、というのはナンセンスです。似たような骨董品がどのくらいの価格で取引されてたか、という直近の事例を参考にするしかありませんが、同じものでも、1千万でも欲しい人もいれば、100円でもいらない人もいます。そんなバラつきがある中でも、欲しい人が多いものの金額が高くなってくるのでしょう。お稽古の時に、社中に「これは大事なお茶碗だから大事に扱ってね」と言っても、どのくらい大事なのかがわからない。でもこれは100万円だから、というと大事に扱ってくれる。「箱があると500万だけど、箱がないと300万です」というと、箱を大事にしてくれる。風情はないですが、分かり易く数値化できるという面では、意味のあることなのではないかと思います。
見立てとは?
問い:お茶でいう「見立て」とはなんですか? ご自身の例をあげてお話ください。
島ありがとうございました。次の質問ですが、「見立て」という言葉についてです。一般に「見立て」というと、お医者さんの場合は「診断をする」という意味になる。奥さんがネクタイの柄を選ぶのも一つの「見立て」。辞書で調べますと「見送る、送別する」という意味もあるんですね。意味の幅が広い言葉です。お茶の世界でも「見立て」という言葉がありますが、こちらをご解説いただけたらと思います。
大島現在使われているお茶の道具は、遡れば、ほとんど見立てだと思うんです。お茶を飲む道具としてつくられたものは「天目茶碗」くらいでして、そのほかは別の目的でつくられたものがお茶の世界で見立てによって取り入れらている。見立ててみたらよかったので、それを模して水差し、茶碗、香合、と誕生していったというのが茶道具の根源だと思うんです。
私は見立てが大好きでして、海外でも必ず道具を売っているところに行って、パッと目に留まったら買って帰ります。帰って人に見せるとみんながいいなあ、と言って次に行ったときには私のあとをぞろぞろとついてくるわけです。でも、私はすっと横に抜けてまいてしまうことにしています。なぜなら、自分が見立てたものが金沢のまちのどこにでも手に入るようになったら面白くないからです。
50年ほど前にヨーロッパに行って買って来たものを、最近茶会で使おうとしたら蓋がなかったので、ここにおられる岡さんにつくってもらいました。一種の感性で、あるものを何に使うかが茶の世界の見立てだと思います。外国人はそれが上手ですが、日本人はおみやげ屋さんでも「これは何に使えるんですか」と質問する人が多いそうです。日本人は感性が鈍くなってしまったのだろうか、と私は最近感じております。
田中(仙)カナダに留学していたときに、カフェオレのボウルを茶碗にしたり、エッグスタンドを蓋置きにしたりしていました。あの時はここでも茶碗を欲しいなと思う気持ちから陶器市にいって買ったりもしていましたが、茶人だから見立てなければ、と思いはじめるとだんだんと心が不純になってしまってうまくいかなくなるのです。自分の気持ちと合うもの、大島先生のように「自分の口を離れんぐい呑」に出会うのはなかなか得難いことだと思います。
「真似をしない」ということでいいますと、昔、花を生けないで床の間に水を打ち「今日は雨だから」と茶会をやったという粋な話があります。ところがみんなそれを真似をすると風流ではなくなる。見立ても「使えない」と思っていたものを使うところに新鮮さがあるわけで、「これは見立てとしてうまくいく、ここにいくと見立ての掘り出しものがある」と見つけるようになっていくと、ちょっとずれてくる気がします。
宇田川「見立て」とは本来つくられた用途とは違う用途で使うことですが、主婦がハンガーをまげて収納に使ったり、など普段の暮らしのなかで工夫されている方はたくさんいます。お茶の道具では、人を呼んでもてなす時に褒めて欲しい、というのが根底にあるのだと思います。高価な良い道具を使えば、みんなに褒められるけれど、逆にいいものばかりだと面白くなかったり、大して高価な道具ではなくても、茶道具ではないものをうまく代用してびっくりさせると、高価な道具を使うより褒めてもらえたりする。そんなことが見立ての面白さなのではないでしょうか。そのびっくりが、お茶の雰囲気にあっているか、もてなす相手の好みにあっているかのバランスが大事で、難しいことなのですが。
いい道具
問い:道具について「いい道具だな」と思われた瞬間は?
島見立て自体が自己目的化したり様式化することはおかしいですよね。そのあたりの瞬発力や応用力などが必要となってくると、いまお話を伺って実感しました。次に、先ほどの価値ノ問題も関わってきますが、これまでの出会いを通して「いい道具だ」と思われるタイミングや瞬間、思い出など何かお話いただけますでしょうか。宇田川さんからお願いします。
宇田川色々と鑑定して、これはいいものだ、と論理的に判断するよりも、第一印象で忘れられない、ということが多いです。茶碗やぐい呑は触って口をつけたり、使ってみて良さがわかるということもありますが、茶入は殊に一目惚れな気がします。今私の一番のお気に入りの道具は、店で並んでいるのをパッと見て、直感的に「これは見たらまずい」と思って二度と見ないようにしていたのです。でも1週間たっても忘れられなくて、結局「あれまだ残っていますか」と訊いて、頂いてしまいました。
田中(仙)自分が選んだ道具がいい道具かは自信がなくて、だから「いい道具を見ておきなさい」と言われた経験からお話しします。高校生の頃、父が博多の宗湛茶会を担当することになった時、美術商から特別に借りて来たものがうちにありました。突然「特別な機会だから見ろ」と父に言われて、「なんで見なくちゃいけないんだ」と思いながらしぶしぶ行ったら茶入れとお茶碗があったのですが、二つが邪魔をしていないという印象を受けました。「いい道具」というときに、ほかの美術品だと一つのものが際立っていればいいという場合でも、お茶の場合は組み合わせるということ、溶け込んでいる、という評価基準があるのではないか、と思います。
大島ご質問に答える内容ではないかもしれませんが、いい道具はずっと歴史的に続いてきています。金沢市卯辰山工芸工房や大学で講義をするとき、若い作家には「いい道具を見ろ」と言っています。私も絵を描くことがあってよく模写をしていたのですが、単に同じものをつくろうとすると贋物をつくることになってしまうから、その先に作品のいいところを見つけろ、という話をよくするのです。この道具が歴史的に良いとされているのはなぜなのかを見極めることが、君たちが将来いいものをつくることにつながるのだ、と。いいものがなぜいいのか、という目を持たねばならないということです。
そのために一番いいのは茶室です。美術館ではガラス越しにしか見ることができないような重要な美術品でも、茶室では触ってみることができる。目だけではなく肌で触れて、重み、肌触り、色合いなどを感じることのできる機会はやはり茶会ではないでしょうか。学生たちにも茶会を勧めていますが、お茶の勉強をしないと触れないからな、と言っています。
島加えて質問をしたいのですが、金沢には古いお道具屋さんもたくさんありまして、初心者の方はまずお道具やさんに入ること自体が非常に緊張するのではないかと思います。そのあたりの心構えやヒントがあれば教えていただければ。
大島お茶を習って扱い方を勉強することが一番の近道だと思います。茶席を覗いておられる道具屋さんは「ああ、あいつは好きなんやな」とわかりますし、いきなりお店に飛び込んでも、快く見せてくれると思います。京都の料亭のような「一見さんお断り」ではありませんが、やはりオドオドと入っていくと、業者に警戒されかねません。堂々と入っていく、そういう雰囲気や態度をつくっていくのもいいかもしれません。
田中(仙)偉そうなことを言ってしまうと、私たちもお道具屋さんを選ぶ立場です。自分が長くつきあっていけるかが大事だと思います。その道具の良さがわかってくるには時間がかかりますから、自身の目が開ける時間を付き合っていける人かどうか。相性もありますから、長い時間つきあっていける人かどうかをヒントにしていただくのもいいでしょう。
宇田川ご紹介とか、お茶を習っているのであれば先生のご縁のある方が一番いいと思いますが、お茶と関係なく道具を買いたいというのでしたら、いろんなお道具屋さんが商品をもってきている美術倶楽部の展示などを見て回って、「これが自分のセンスに合うな」と感じたらお店の方と話してみると、だんだん仲良くなるのではないでしょうか。居酒屋さんでも通い詰めると自分の好みのものを出してくれたりしますし、そういう関係を築いていくと良いのではないかと思います。
「金沢」という地
問い:「金沢」という土地、石川の風土について
島次の質問ですが、金沢というまちがもっている力といいますか。金沢への思いを宇田川さんからお話いただけますでしょうか。
宇田川私はずっと東京に住んでいますが、宗和流が金沢に伝わったご縁で、金沢の宗和流の茶会にも伺わせていただいており、ご縁の深い場所と思っております。金沢に来ると、日常のなかに文化が凝縮して根付いているのが感じられます。お茶事の八寸にお酒を酌み交わす作法がありますが、私の先生から「金沢では加賀宝生も盛んなので、茶席の盃事でも水屋に三味線が控えていて謡を披露したりする」と聞いています。東京だとなかなかそういう文化は残っていませんが、金沢はこういう文化が身近なのだという印象を持っています。
田中(仙)私の曽祖父の田中仙樵は、金沢からきた宝生流(ほうしょうりゅう)の師匠から三代にわたって「加賀宝生(かがほうしょう)」を習っていたと聞いています。ですから私は幼い頃、金沢という名前よりも加賀宝生という音場が先に頭に入っていました。まさに宇田川さんのお話にあったように、生活のなかに生きている。とはいえ、いま茶事に呼ばれて謡が謡えるかというと、私は謡えませんが……。
この地元が産んだ偉大な哲学者の西田幾多郎は「人が環境をつくり、環境が人をつくる」といっております。まさにそういう文化をつくりだす環境を大切にしていく。金沢のそういう姿勢が哲学者の言葉に象徴されていると考えております。
大島金沢は昔から独特のお茶事の進め方がございまして、よく「吸い物八寸」という、流儀によっても少々違いますが、まず最初に11時にお集まりいただき、出前をして、茶会席、お食事でもてなします。お酒も出ます。「利休は三献をすぐるべからず」といって、お酒の好きなものは三献で終わったら蛇の生殺しや、というわけです。そこで石杯が出て来ますが、あまり酔っぱらうと次の席でお茶を飲むので心配になります。そういうこともあってか、金沢では先にお茶をして、そのあと懐石になるんです。名器は素面のうちにじっくりと楽しんでいただいて、そののち懐石の席になって、十分にお酒を楽しみ、茶懐石の器も楽しんでいただく、と。そういう独特のやり方でいままでお茶事をやってきたことが多いわけです。
それから金沢には白足袋族といわれるお茶会が多かったそうです。やはり流儀の違いで食事の仕方も違ったりして、なかにいろんな流儀の人がおると隣同士でつつきあったりして、というような面白い話を聞いておりますけれど、やはりお茶の美味しさ、道具の良さ、また懐石の料理の美味しさ、器の良さ、をすべて楽しむということが大事なのではないでしょうか。
たとえば、金沢の料理屋では一席3万円以上することもあります。そうすると仲間によく言うわけです。「食材は数千円だが、何が高いのか。器、掛け軸、お花、道具、それもすべて3万円の中に含まれている。料理だけ食べて満足するようじゃ、大損だよ」と。掛け軸を見て何が掛かっているか、わからなければ女将に訊ねなさい。お花や花器、器も訊ねなさい、と。訊ねると「このお客さんはこういうことに興味があるのか」と思われる。わからない客ならなんでもかまわないといった扱いしか受けないよ、と。ちょっと話が横道に逸れましたが、そういう話をよく仲間に言うことがあります。
自由な茶会
問い:なんでもあり? 昨今水着の茶会などありますが・・・
島質問としては最後になりますが、茶道の世界でどこまでいろんなことが受容されるのか。昨今水着の茶会があったと聞いております。今年、ベネチアビエンナーレやドクメンタ、ミュンスターなど国際的な芸術祭の当たり年ですが、ミュンスターの中心部の美術館の前に、トラックの上で赤い服をきてお茶会を開いている男性を見かけました。
これは展覧会を観に来たお客さんが次から次へとトラックに登り、お茶を飲んでいる様子を写した写真です。この人は以前から各地で野点をしていたのですが、こういった色々なスタイルの茶道をご覧になっていかがでしょうか。
大島金沢の昔の逸話に「裸点前」という、裸でお茶をする話があります。暑がりの男性がある時「私はとても暑がりで、着物を着てお茶の点前なんてできん」と言い、客に対して「裸でやってよろしいでしょうか」と訊ねます。客は、ひょっとして男が褌(ふんどし)に帛紗(ふくさ)をつけて出てくるのかと心配していましたが、ハチマキをしてそこに帛紗をつけてきた。そういう逸話があるんです。
それから、母が習っていた、東京の堀越宗円(ほりこしそうえん)という大変熱心な先生がいました。お点前の手順はもちろん、点前をする姿勢、形も非常に熱心に教えてくださった。ある時、堀越先生は水着でお点前をされたそうです。目の遣り場がなかったと母は言っていました。体の線の動きがいかになっているかを見せるためにされたと思います。
今、お茶会が色々な場所や形でされていることは、いいのではないでしょうか。ただお茶は飲食をするので、清潔感と清楚さがきちんとあれば、否定するものではありません。
田中(仙)私は、大島さんのお話にあったように、お酒を楽しみたいから先にお茶を飲むという、必然性や主張が大事だと思います。なんでもありという場合、ただ形ではなく、何をしたかというできごとだけではなく、こういう理由があってどうしてもこういうことをやりたい、という思いが、やる人の中に存在するかどうかが、大切な一つのポイントだと考えるのです。
なんでもありとなった時に、ハレとケの区別がつかなくなるのは避けたいです。今回も工芸の祭典ですが「祭り」というのは、日常と違った時空をみんなが意識することによって成り立たせていくわけですよね。お茶のなかでも気持ちを盛り上げていくような特別な場面ではハレだということ。なんでもありとなってハレとケがなしくずしになってしまうことにはならないほうがいいと思うのです。
宇田川お茶は自分の美意識を表現する場なのでいろんな形があっていいと思います。個人の好き嫌いで、たとえ国宝でもあのお茶碗では飲みたくないというのもあったりしますから。変わった趣向であっても、それを喜ぶグループの人同士でやっていればいいことなので、できるだけ批判はしたくないですが、個人的には濃茶を飲むときの雰囲気が「お茶らしい」かどうか、茶道であるかどうかが重要と思っています。抹茶が出れば何でも「茶の湯」というわけではないかな、と。
「茶道の本質は不完全ということの崇拝」
島最後にもう一つお聞きしたいことがあります。岡倉天心が100年以上前に英語で書いたお茶の本があります。「茶道の本質は、不完全ということの崇拝」という一節があり、その言葉が印象に残りました。その言葉について、または茶道の本質について、最後に皆様から一言ずつお願いいたします。
大島不完全なものを崇拝する心は、侘び寂びの世界など日本人独特の完成にあると思います。私がよく説明するのは、10よりも8や9の方がよい、と。10は完成された一つの数字であり、その先はない。しかし8や9はその先がある。それを喜ぶ文化が、侘び寂びの考え方なのではないでしょうか。
先日も中秋の名月がありましたが、空を見ていたらすっと雲がかかったんです。ヨーロッパや中国では晴れわたった空にまんまるの月が名月という見方をしていますが、そこにすっと枝がかかったり、雲間に見えるのが、不完全な侘び寂びの心でしょう。そう考えながらお茶にかかわってまいりました。
田中(仙)天心の言葉は多くの人が着目しています。本の解説を書く時に「imperfect(インパーフェクト)」という言葉を考えていました。野球では「perfect game(パーフェクトゲーム)」といったり、英文法では「perfect tense(パーフェクトテンス)」が「完了形」という意味だったりします。するとそれを否定した形のインパーフェクトは、できあがってしまっているのではなく、未完成で未だ成らざるところになります。私どもの道場には「途中(みちなかば)」と書いた額が掲げてあります。これも「imperfect」かなと思います。
宇田川完全すぎると想像する余地がなくなる。何か欠けていると想像力で補う、というところが面白さでしょう。人間も100パーセント何でもできて優等生だと面白くありません。あいつは酒飲むと駄目だけど、とか、ちょっと女性関係が、とか完全すぎないほうが人間として付き合って面白い気がします。
島いろいろな問題提起をいただいたのではないかと思います。今後も続く大きな課題でもありますので、私自身は茶道に関しては全くの素人ですが、登壇された方々のお言葉一つひとつに新しい発見があり「ああそういうことだったのか」と思ったり、まだよく理解しきれていないところもありました。本当に今日はあっというまの時間でしたが、ありがとうございました。
シンポジウム 「茶道から学ぶていねいな暮らし」
主催:一般社団法人ザ・クリエイション・オブ・ジャパン
開催日程:2017年10月12日(木)
開催場所:金沢21世紀美術館 シアター21